見る?読む? 看書 讀書 念書

 

しばらく前になりますが、こんな質問を受けました。

 

「本を読む」って何て言うの?

 

テキストでは「看書 kàn shū」とあったけれども、台湾ドラマを見ていた時、何か違うように聞こえたそうです。

 

確かにいくつか言い方がありますね。

 

看書 kàn shū

看は本来「見る」ですが、「本を見る」ということは、つまり、本を読むことになります。日本語でも読書することを「書見する」という言い方がありますね。

 

讀書 dú shū

本を読む、まさに読書ですね。後述しますが、「勉強する」意味にもなります。

 

念書 niàn shū

」は黙って「念じる」のではなくて、むしろ「音読する」ことが本来の意味です。 

 

本を読む=勉強する

本を沢山読むということは「勉強する」という意味にもなります。 

看書 讀書 念書どれも「勉強する」という意味になります。

 

また、讀や念は後ろに学校をおいて「~で学ぶ」ということもあらわせます。

 

妳還在讀大學嗎? nǐ hái zài dú dà xué ma

君ってまだ大学生なの?(あなたはまだ大学で学んでいるの)

 

学校名そのものを持ってきても大丈夫ですよ。

 

我想讀臺大  wǒ xiǎng dú tái dà

私は台大に進学したい。(私は臺灣大學で学びたい)

 

 

念や讀の多義性を使ったこんななぞなぞがあります。なにがオチだかわかりますか?

 

念北京大學需要多長時間?  niàn běi jīng dà xué xū yào duō cháng shí jiān

讀完北京大學需要多長時間?   dú wán běi jīng dà xué xū yào duō cháng shí jiān

 

答えは…


1秒(または4年)です。

 

「念(または讀)北京大學」は前述のとおり「北京大学で学ぶ」と理解するのが妥当ですが、「『北京大学』の4文字を読む」と解釈することも可能です。つまり、

 

どちらも「北京大学で勉強するのは(卒業までに)どれだけの時間がかかりますか」と「北京大学」の4文字を読むのにどれだけの時間がかかりますか?」の両方の意味に取れるわけです。

ちなみに看北京大學というと単に北京大学(の建物やキャンパスなど)を見ることになり、北大で勉強することにはならないのが面白いですね。

余談ですが、

「本を読む」がすなわち「勉強する」ことを意味するというのは極めて東アジア的な気がします。対話や思索も大切だけど、古典を知ることがまず先といったところでしょうか。


10年位前よく中国を訪れていた頃、本屋さんで学校帰りの小学生が床にしゃがみこんで本を読んでいる光景をよく目にしました。

「暇だから本でも読むか」という感覚が子供たちの間に普通にある、この国はまともだなあ、と感じたものです。スマホが普及した今はどうなっているのか分かりませんが…

 

中国の慣用表現の中にも

讀書破萬卷,下筆如有神 dú shū pò wàn juǎn, xià bǐ rú yǒu shén

(万巻の書を読破すれば、文章は思いのまま)

 

なんていう言い方もあります。(杜甫の詩が出典だそうです)

 

しかし、その一方で、

 

聽君一席話, 勝讀萬卷書  tīng jūn yī xí huà, shèng dú wàn juǎn shū

(あなたのお話を聞くことは万巻の書を読むことにも勝る)

 

ともいいますね。まあ、これも「学びは読書が基本」という考えがあるからこそ、それを引き合いに出しているとも言えるのではないでしょうか。